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zoom RSS 「高円寺物語」18

<<   作成日時 : 2008/10/21 22:36   >>

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「高円寺物語」18 

 まわりの人だかりの自然消滅で、さっきのざわざわが戻ってきた。若独楽の半被は、もう見えない。

「それじゃあ、ごめんください」

 何度も丁寧にお辞儀するおばあさんに、やっとお辞儀を返し終わって、志乃と顔を見合わせた。もしかして、良いことをしちゃったかもしれない自分たち。だけど今すぐそれに触れたら、価値がなくなってしまうような気がしていた。
 
「明日は雨だってよ。けっこう降るってさ」ガード下から高架を見上げてあたしが言った。

「どっちでもいいよ。なんか急に楽しくなってきた。ワクワクするなー」志乃が遠足前の小学生のようなことを言う。
 
「ワクワクねぇ」乗りきれないのはメンチのせいかもしれない。
 
「まあ、とにかくあれだ。『がんばって。がんばるのよ』」おばあさんの真似をして志乃が笑った。

 何を頑張るんだか。

「うん。じゃあね、バイバイ。あっ、志乃」 

「はいはいはいはい」今度はおじいさんの真似だ。

「明日、バンドエイドだけじゃなくて包帯もね。伸びるやつのほうがいいよ。今日よりずっと痛くなるから、足」

「わかったわかったわかった。バイバイ」



 志乃の後姿を見送って近道の路地に折れた。誰もいないのを確かめる。シンとした路地。頬が湿ったように感じるのは細かい雨のせいだ。

「この辺だったかなぁ」

 独り言がでて足が止まった。
 


《――お、雨か。そういえばイギリスも雨が多いです。こっちと違って、トレンチ(コート)で凌(しの)げるような雨ですが。
 そうだ、今日はウィリアム・ハミルトンの話でもしましょうか。彼はね、アイルランド生まれのイギリスの数学者です。また物理学者でもありました》

 カンゼンスウは授業の前によく数学にまつわる話をした。
 あたしは、その中でも数学者の話が好きだった。いくら天才でもその前に人間なわけで、そんな彼らにまつわる人間臭いエピソードに惹かれたからだ。
 例えば、決闘で20歳の若さで死んだガロワ、同性愛者だったチューリング、恋敵の数学者に嫉妬したノーベルがノーベル賞に数学賞を作らなかったという逸話がある美貌の女性数学者、ソーニャ、肝心な功績よりも、そんなのばかり記憶した。 

《1805年生まれのウィリアム・ハミルトンは四元数と呼ばれる高次複素数の発見をした人です。彼が四元数の概念に到達したのは1843年のことでした。散歩中のブルーム橋の上で閃いた彼は、あいにくペンと紙の持ち合わせがありませんでした。そこで、持っていたナイフでその場に刻んだのがこれ――》

 i^2=j^2=k^2=ijk=-1
 カッ、カッ、っと書きつけられた公式は、ちんぷんかんぷんだった。

《――幼いころから神童と言われた彼が37歳のときでした。
 つまり、何が言いたいのかというと、数学というのはずっとひとつのことを考え続ける根気強さと忍耐力が必要だということです。決してただの思いつきで生み出されるものではないんです。

 まあ、しつこい人向き、といったらそうなんですけど、だからといってわたしがしつこいというわけではありません。誰ですか、そこで笑ってるのは。

 彼の情熱を裏付けるエピソードがあります。

 ウィリアムは19歳のときに初恋をしました。お相手はキャサリンという女性です。2人は相思相愛でしたが、貧乏な一学生なんかに娘をくれてやりたくないキャサリンの父親によって、彼らは引き裂かれてしまうんです。キャサリンは年上の牧師と婚約します。

 もちろん、ウィリアムは大ショックです。当時は封建制度といって家柄や格式を重んじる時代ですからね。2人の意思だけではどうにもならないことだったんです。

 2年ほど失意の日々を過ごしたのち、研究に没頭していた彼も、やがて結婚するわけなのですが、相手は年上で病弱なうえ、気持ちが通じる相手ではありませんでした。そんなわけで、ウィリアムはキャサリンのことがずっと忘れられません。キャサリンもまた不幸な結婚生活を送っていました。彼女はのちに彼より先に病気で亡くなります。
 
 ある日、ウィリアムが訪れたのは、キャサリンを見初(そ)めた、今はもう朽ち果てた邸宅でした。彼は、その昔、彼女が立っていた場所にひざまづくと、黄昏(たそがれ)の光の中で床にそっとキスをしました。彼が45歳のときです。

 実に初恋から27年の時が経(た)っていました――》 

 キモッ!  

 教室がどよめいたのはカンゼンスウが滑ったからじゃない。あたしたち特有の照れだ。

《晩年の彼はアルコール漬けでした。キャサリンへの思慕は断ちがたく、それでも死ぬまで四元数の研究に打ち込みました。彼にとって、この2つは永遠のテーマだったのでしょう》


 
 

 あたしの足元に落ちた光がぼあんと広がった。

 裾をつまんで黄昏の中心にしゃがみこむ。

 ふん、瞳か。そこに鼻を鳴らす四元数がいた。
 




――つづく――



ウィリアム・ハミルトンクリック。



<お断り>
「天才の栄光と挫折」藤原正彦著 (新潮選書)から、ウィリアム・ハミルトンの逸話をお借りしました。

 今日のBGM→クリック。She's Got a Way

 小学生も視野に入れてフリ仮名をつけます。読みづらかったらごめんなさい。



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コメント(10件)

内 容 ニックネーム/日時
ガロアは二度の論文紛失で溜まった怒りの捌け口を政治活動に求めてしまった不運な男。

いわゆる「泣ける話」で書かれてる純愛なんてのは本当の純愛じゃありません。本気で一途に人を愛するのは、他者から見ると滑稽で馬鹿馬鹿しく、理解しがたいものです。

URL
2008/10/21 23:52
鯨さん、いつもありがとう。
ガロアのこと、知ってたんですね。決闘の前に「時間が無い」と言って、ぎりぎりまで何かを書きとめていたそうですよ。もし彼が命を落とすようなことがなければ、現代も少し違ったんだろうか。
他者が見ると滑稽か、ほんと、言えてるね。そう見えても、幸せは他人が判断するものじゃないから、それで、いいんだね。
つる
2008/10/22 02:27
ウィリアム・ハミントンの話、面白かったです。でも学生時代なら照れちゃうだろうなぁ。素の状態の時に良い話されるとリアクションに困ります(笑)でも何百年もかけて宇宙の真理を解こうとする学者さんにはロマンを感じますよね。
おや?そんなところに四元数が。
ia.
2008/10/22 22:56
あ、ia.さん、連コメありがとう。
ウィリアム・ハミントンの話が面白いのは、著者の藤原正彦の本が面白いからです。
素のときものリアクション、困りますよね。それに感動って少し遅れてやってきませんか。みんなとわたし少しズレますよ。そんなとき、あのリアクションはどうかしら、タムケンの「ちゃあ〜」、あれ好き。
ええ、そんなところに四元数落ちてました。これが書きたくて3話くらい回り道しました。お付合いくださっていつも感謝です。
つる
2008/10/23 01:28
素敵な数学がらみの恋話ですね。
からっきし数学アレルギーの私は
数学の話が始まった時には逃げてやろうかと思いましたけど(笑)

>ふん、瞳か。そこに鼻を鳴らす四元数がいた。
良い感じの表現ですね。(生意気でゴメンね)
続きを読みたくなる余韻が満々です。

と言いますか、かなり前半は笑っちゃいましたけどね。
だって「のいるこいる」ツボなんだもーん。

2008/10/23 08:59
舞さん、いつもありがとう。
数学というより数学周辺の話でした。わたしも数学、苦手よ。だから逆に憧れがあって、書きたかっただけなんです。

続きがねー、うまく書けたらいいんだけど。「20」と「21」は書けたんだけど、「19」がイマイチなんだわー。悩む悩む。
え〜?「のいるこいる」がツボ?ほんと?わたしだけかと思ってた。それは、よかったよかった。
つる
2008/10/23 22:32
ウィリアム・ハミントン? ハミルトン?の話。面白いすね。この部分は引用なの? それとも参考にしたって感じ? こういう語りはいいな。好きだな。
レイバック
2008/10/28 22:41
レイバックさん、ここにもありがとう。
するどいわ!ハミルトンだった。また、間違えた。さっそく訂正です。
この部分は「天才の栄光と挫折」に書かれているエピソードなんですけど、語りがやはり著者のものなんですね。だから望月先生(カンゼンスウ)だったら、こんなベシャリになるかなー、と工夫しました。だいぶはしょってるけど。まあ、だいたい、こんな感じのことが書いてあるんです。あ、この本、かなり面白いです。著者が作家ではなく数学者ということを差引いても「博士が愛した数学」からの流れで読むととても楽しめます。
うん、カンゼンスウのように高校生を一人前扱いする言葉遣いの先生は、わたしも大好きです。地学の先生を思い出しながら書きました。
つる
2008/10/28 23:55
ご無沙汰してしまってすみません。
ちょうど数学者の話のところで止まってたのはそれが理由に見えなくもないか。
中学の時、複素数の負の部分が正の部分と対称的に描かれるのがどうにも納得いかなくて、教師に食い下がり授業を30分止めてしまった文系脳でごぜえますだ(笑)
数学も恋も、ずっとひとつのことを考え続ける根気強さと忍耐力が必要だということか、うーん、素晴らしいです!
銀河系一朗
2008/12/27 00:18
銀河系一朗さん、いつもありがとう。
心配しましたよ。でも、よかった。復活オメ!
>複素数
へー、そうだったんだ。そんなことがあったんだ。教師に食い下がる生徒かぁ。先生の腕の見せ所ね。当時のクラスメイトもそういうエピソードって覚えてるんじゃない?コメを読んで、そのシーンを想像してしまいました。
小説も根気と忍耐よ。書きたいところまでもっていくのに地味な作業が続くもの。しかし、ここで数学の話を書いていたのか、わたし。よく阿波おどりに戻れたなあ。アブネーアブネー。
そうそう、公式の「i^2」というのは、「iの二乗」のことです。変換できなかったの。
つる
2008/12/27 01:41

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